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プロカメラマン
2002年4月15日がプロカメラマンとしてデビューした日。 この日から自分の新たな人生が始まった。 結婚もした。。。 自分の力とセンスで認められて報酬を得ることができるこのカメラの世界がたまらなく魅力的で刺激的で楽しい。 それは今でも同じ気持ちでやはり自分の写真で誰かが喜び、または認められて活躍できるってそれって自分が必要とされているって実感できるし、頑張れる。 こんなにも素晴らしい仕事はない。 2002年から駆け抜けて2005年にこのラヴィのホノルル支店の店長を任されるまでになりました。 1年で店長を辞めて、そこからフリーとしてウェディング写真だけでなく雑誌の世界へ活躍の場を広げる。観光雑誌の当時ハワイスタイル、アロハエクスプレス、るるぶなど。新しい世界での写真の世界もとても楽しく、面白かった。新たなことにチャレンジしている充実感がそこにはあった。 2008年にそれまでラヴィの梅田さんに言われ続けていた 『俺のところで学んだら世界のどこでも仕事はできる!』と その言葉を胸に新たなチャレンジに踏み出したくなり、いきなりニューヨークへ活動の場を探す。 写真といっても写真の世界はさまざまで、それこそウェディングカメラマンや戦場カメラマン、ファッション、ヌード、アート、グルメ、新聞、などなどその世界全てに写真の仕事があるのだ。 ハワイでは観光系とウェディングをやっていた。ニューヨークでは。。。 自信持って自分の作品を抱え、履歴書とともに有名企業の門を叩く。 それこそロイター通信、AP通信、時事通信からさまざまな写真会社の門を叩くがどの会社も同じように。。。 『写真は素晴らしい!これならフリーとして自分でやった方がいいよ!』って。 最初はまともに受け止めていて喜んでいたのだが。。。4、5社目辺りから ニューヨーク流の断り方なのかと!!! 21社まで断られ、22社目に初めて現地のウェディング写真会社へ行ってみるとまた同じように『素晴らしい作品!自分でやった方がいいよ!』って。 流石に困ってしまい、自分もここで折れてはと思い交渉するも、『ここまで撮れるなら自分でやった方がいいよ!』ってお世辞でもなんでもなかったようで。。。ただ自分でやるにしても『どうすれば???』 って考え。。。 気がつけば新しくアパート借りて、変なこだわりでマンハッタンにどうしても住みたかったから高額な家賃にも関わらず。。。手元には現金の20ドルしか無くなってしまった。。。 当時結婚していた相手には娘もいてまだ小学生でお腹も空かせていたのに、こともあろうか俺は10ドルもするタバコを買ったし。。。 考えて考えて、当時地元掲示板のネット版があることを知り、ここに自分ができる撮影プランを掲載。すると速攻反応があり、一番高いプランが即売!!! ここから勢いを吹き返すのだ! まだ就職先を探している時のこと。雪の降るマンハッタン。ブライアントパークに差し掛かると何やら大きなテントがいっぱいあって周りにはたくさんのお洒落な人たちが群がっていて、それはそれは華やかな世界があった。 寒さも忘れ、なんだろうとテントに近づくと警備の人が『パス持ってる?』と聞かれるが『パス』自体全く知らない自分は『カメラマンなんだけど、どうやったら入れる?』って聞いたら連絡先を教えてくれた。それが当時ニューヨークコレクションを開催している会社だった。 連絡してみると作品を見せて欲しいと言われ、ファッションなんて撮ったことないし、作品もないので知り合いになったばかりのヘアメイクさんのエミさんに聞いてみると、彼女もミルクスタジオという会場のパス(この時大きな勘違いをするのだが)を持っているから欲しい?と聞かれたので欲しい!!!と...
プロカメラマン
2002年4月15日がプロカメラマンとしてデビューした日。 この日から自分の新たな人生が始まった。 結婚もした。。。 自分の力とセンスで認められて報酬を得ることができるこのカメラの世界がたまらなく魅力的で刺激的で楽しい。 それは今でも同じ気持ちでやはり自分の写真で誰かが喜び、または認められて活躍できるってそれって自分が必要とされているって実感できるし、頑張れる。 こんなにも素晴らしい仕事はない。 2002年から駆け抜けて2005年にこのラヴィのホノルル支店の店長を任されるまでになりました。 1年で店長を辞めて、そこからフリーとしてウェディング写真だけでなく雑誌の世界へ活躍の場を広げる。観光雑誌の当時ハワイスタイル、アロハエクスプレス、るるぶなど。新しい世界での写真の世界もとても楽しく、面白かった。新たなことにチャレンジしている充実感がそこにはあった。 2008年にそれまでラヴィの梅田さんに言われ続けていた 『俺のところで学んだら世界のどこでも仕事はできる!』と その言葉を胸に新たなチャレンジに踏み出したくなり、いきなりニューヨークへ活動の場を探す。 写真といっても写真の世界はさまざまで、それこそウェディングカメラマンや戦場カメラマン、ファッション、ヌード、アート、グルメ、新聞、などなどその世界全てに写真の仕事があるのだ。 ハワイでは観光系とウェディングをやっていた。ニューヨークでは。。。 自信持って自分の作品を抱え、履歴書とともに有名企業の門を叩く。 それこそロイター通信、AP通信、時事通信からさまざまな写真会社の門を叩くがどの会社も同じように。。。 『写真は素晴らしい!これならフリーとして自分でやった方がいいよ!』って。 最初はまともに受け止めていて喜んでいたのだが。。。4、5社目辺りから ニューヨーク流の断り方なのかと!!! 21社まで断られ、22社目に初めて現地のウェディング写真会社へ行ってみるとまた同じように『素晴らしい作品!自分でやった方がいいよ!』って。 流石に困ってしまい、自分もここで折れてはと思い交渉するも、『ここまで撮れるなら自分でやった方がいいよ!』ってお世辞でもなんでもなかったようで。。。ただ自分でやるにしても『どうすれば???』 って考え。。。 気がつけば新しくアパート借りて、変なこだわりでマンハッタンにどうしても住みたかったから高額な家賃にも関わらず。。。手元には現金の20ドルしか無くなってしまった。。。 当時結婚していた相手には娘もいてまだ小学生でお腹も空かせていたのに、こともあろうか俺は10ドルもするタバコを買ったし。。。 考えて考えて、当時地元掲示板のネット版があることを知り、ここに自分ができる撮影プランを掲載。すると速攻反応があり、一番高いプランが即売!!! ここから勢いを吹き返すのだ! まだ就職先を探している時のこと。雪の降るマンハッタン。ブライアントパークに差し掛かると何やら大きなテントがいっぱいあって周りにはたくさんのお洒落な人たちが群がっていて、それはそれは華やかな世界があった。 寒さも忘れ、なんだろうとテントに近づくと警備の人が『パス持ってる?』と聞かれるが『パス』自体全く知らない自分は『カメラマンなんだけど、どうやったら入れる?』って聞いたら連絡先を教えてくれた。それが当時ニューヨークコレクションを開催している会社だった。 連絡してみると作品を見せて欲しいと言われ、ファッションなんて撮ったことないし、作品もないので知り合いになったばかりのヘアメイクさんのエミさんに聞いてみると、彼女もミルクスタジオという会場のパス(この時大きな勘違いをするのだが)を持っているから欲しい?と聞かれたので欲しい!!!と...
バイバイ日本
サンディエゴ・チュラビスタに住むことに ここのホームステイ先は日本語話す韓国人のお母さんと白人さんとの間に生まれたハーフの息子さんの母子家庭。 とにかくこの2人には意地悪された。。。 どこへ行っても虐められる。意地悪される。。。 半年住む予定だったが勝手に語学学校を変えて寮生活できるところへ2ヶ月で決めて出ていく。 その行ったUCSDの寮生活、学校生活は楽しかった。全てが新しかった。 出会った先輩や周りの友達がとても優しく、楽しく、ちょっと大人の世界を教えてもらいつつ。新鮮だった。 そんな時。。。 家族が全員サンディエゴに引っ越して来てしまい。。再び家族と住むことに。。。24歳まで。。。 父親とも折り合わず、やりたい事を奪われて無気力になり、たいして学校へもいかずバイト、サーフィン、ゴルフ、バイクに明け暮れる日々。。。そんなのんべんだらりと生活していたら 気がつけば短大を4年も行ってた。。。笑 4年も行けばさすがに単位も取れてて卒業または4年生大学への編入話が浮上する。 この時就職するか大学へ行くか悩んでいたが仕事の話が来ていたところのお給料事情を聞くと愕然。4年生大卒の給料が初任給1100ドル〜 最高額でも1500ドル。。。この時レストランのシェフでさえ5000ドル以上貰っていたのでこれでは就職は無理と決断。 親と離れるタイミングだとも捉えてサンフランシスコ州立大学へ編入を果たす。 久しぶりに戻ってきたサンフランシスコ! 自分の故郷はここだとこの時は信じていた。 同時のサンフランシスコはお世辞にも綺麗で安全な街とは言えなかったが、毎日が新しく、楽しく、自由だった。ジャパセン(ジャパンセンターという日本人街)の中に紀伊国屋書店があってここでバイトを始める。大好きな雑誌に触れて毎日大好きな写真を見て! 自分の人生を変える人物『橋本勝』に出会うのもこのサンフランシスコ。 当時のジャパセンには同じような年代の日本人たちがいて日本ではJリーグが発足するその年に仲間が必然と集まり、勝に出会うことで本格的にチームを作った。 当時勝の兄貴がブラジルプロサッカーチーム『コリンチャンス』に所属していることもあって我々はサッカーに没頭し毎日のように部活のように激しく練習し、激しく遊び、激しく飲んだ!笑 今では自分の青春時代がこのサンフランシスコの『コリンチャンス』時代なんだと。 紀伊國屋で働いているお金がサッカーや飲み代に消えていくのでバイトをもう2つ掛け持つことに。ビデオ屋さん、そして観光バスのツアーでモントレーカーメルをご案内する仕事。 学校そこそこにバイトとサッカーに明け暮れ4年生最後の学期で就職をする。 HISサンフランシスコ支店。 入社2年で成績が優秀で当時はJALと大韓航空、アシアナ航空の航空券売上が個人でよく接待された。訳もわからない大人の世界に招待されて居心地悪かったのを覚えている。バブリーな時期であった。 業績が認められ新宿本店で働くことになる。当時は自分ではほんの数ヶ月いるだけだと思っていたのだが、1年いてくれと。 新宿での仕事はきつかった。後にブラック企業として厚生省に叩かれるのだが、当時いた自分はバブル後の日本のサラリーマンとして企業戦士としてこき使われる日々。それでも自分から率先して毎朝6時半には埼玉の駅から満員電車に乗り、埼京線に乗り換えて朝早く誰よりも会社へ出社し240ものみんなの机を拭き掃除した。なんせ日々の成績が周りよりも芳しくなく、新宿だからヤクザもいて喧嘩になりそうになったり。。。よくお騒がせしてましたから。。。 夜の11時までなんとなく仕事して満員電車に揺られて帰る毎日。...
バイバイ日本
サンディエゴ・チュラビスタに住むことに ここのホームステイ先は日本語話す韓国人のお母さんと白人さんとの間に生まれたハーフの息子さんの母子家庭。 とにかくこの2人には意地悪された。。。 どこへ行っても虐められる。意地悪される。。。 半年住む予定だったが勝手に語学学校を変えて寮生活できるところへ2ヶ月で決めて出ていく。 その行ったUCSDの寮生活、学校生活は楽しかった。全てが新しかった。 出会った先輩や周りの友達がとても優しく、楽しく、ちょっと大人の世界を教えてもらいつつ。新鮮だった。 そんな時。。。 家族が全員サンディエゴに引っ越して来てしまい。。再び家族と住むことに。。。24歳まで。。。 父親とも折り合わず、やりたい事を奪われて無気力になり、たいして学校へもいかずバイト、サーフィン、ゴルフ、バイクに明け暮れる日々。。。そんなのんべんだらりと生活していたら 気がつけば短大を4年も行ってた。。。笑 4年も行けばさすがに単位も取れてて卒業または4年生大学への編入話が浮上する。 この時就職するか大学へ行くか悩んでいたが仕事の話が来ていたところのお給料事情を聞くと愕然。4年生大卒の給料が初任給1100ドル〜 最高額でも1500ドル。。。この時レストランのシェフでさえ5000ドル以上貰っていたのでこれでは就職は無理と決断。 親と離れるタイミングだとも捉えてサンフランシスコ州立大学へ編入を果たす。 久しぶりに戻ってきたサンフランシスコ! 自分の故郷はここだとこの時は信じていた。 同時のサンフランシスコはお世辞にも綺麗で安全な街とは言えなかったが、毎日が新しく、楽しく、自由だった。ジャパセン(ジャパンセンターという日本人街)の中に紀伊国屋書店があってここでバイトを始める。大好きな雑誌に触れて毎日大好きな写真を見て! 自分の人生を変える人物『橋本勝』に出会うのもこのサンフランシスコ。 当時のジャパセンには同じような年代の日本人たちがいて日本ではJリーグが発足するその年に仲間が必然と集まり、勝に出会うことで本格的にチームを作った。 当時勝の兄貴がブラジルプロサッカーチーム『コリンチャンス』に所属していることもあって我々はサッカーに没頭し毎日のように部活のように激しく練習し、激しく遊び、激しく飲んだ!笑 今では自分の青春時代がこのサンフランシスコの『コリンチャンス』時代なんだと。 紀伊國屋で働いているお金がサッカーや飲み代に消えていくのでバイトをもう2つ掛け持つことに。ビデオ屋さん、そして観光バスのツアーでモントレーカーメルをご案内する仕事。 学校そこそこにバイトとサッカーに明け暮れ4年生最後の学期で就職をする。 HISサンフランシスコ支店。 入社2年で成績が優秀で当時はJALと大韓航空、アシアナ航空の航空券売上が個人でよく接待された。訳もわからない大人の世界に招待されて居心地悪かったのを覚えている。バブリーな時期であった。 業績が認められ新宿本店で働くことになる。当時は自分ではほんの数ヶ月いるだけだと思っていたのだが、1年いてくれと。 新宿での仕事はきつかった。後にブラック企業として厚生省に叩かれるのだが、当時いた自分はバブル後の日本のサラリーマンとして企業戦士としてこき使われる日々。それでも自分から率先して毎朝6時半には埼玉の駅から満員電車に乗り、埼京線に乗り換えて朝早く誰よりも会社へ出社し240ものみんなの机を拭き掃除した。なんせ日々の成績が周りよりも芳しくなく、新宿だからヤクザもいて喧嘩になりそうになったり。。。よくお騒がせしてましたから。。。 夜の11時までなんとなく仕事して満員電車に揺られて帰る毎日。...
Birth
1968年5月2日、カリフォルニア州バークレー市にて生誕 名前は増田高寛(ますだ たかひろ) 親が結婚したのは11月なのに。。。なぜか5月に生まれました。 親に聞いても回答はなく。。。 きっと今でいうデキ婚だったのでは。 うちの両親の出会いから結婚はとてもドラマチックでこの話はまた自分のこれまでの生涯を描き終えた後にでも記録として残そうと思う。 名前も見た目も日本人のままカリフォルニアで生まれるというこの先色んな意味で自分の人生に大きな影響を及ぼす事柄になる。 生まれた時は大きすぎて三又の機械で頭を掴み母のお腹から出されるとういう手法で出てきました。三又のそのうちの一本が滑り顔に大きな傷を残して出てきた。この傷は成長とともにはっきりクッキリと残ることになる。 母は専業主婦で、父は当時の日本航空貨物で働いていた。 幼少の頃から父の仕事の都合でサンフランシスコーニューヨークーシカゴを点々とし再びサンフランシスコへ戻ってきた時はサンマテオという街に住むことに。この時6歳。妹がここで生まれた。 子供の時の記憶がまだ鮮明に残っていることがある 4歳か、5歳の時か。。。 うちはいつも暗かった。カーテンのせいか薄いブルーとグレーのような色。そんな印象が残っている。 ある朝父が泣きながら僕のところへ ぎゅっと抱きしめられて泣きながら『マミーは愛してる』って。 母が居なくなった。自分と父を残してどこかへ行ってしまった。 父は乱暴で気に入らないことがあると怒鳴り散らし、怒り、母はいつも恐怖に怯えていたようにも思う。 その後どこでどうなったのか全く解らないが、気がつけば自分は母の元にいた。 母は若い時(16歳以降かな)サンフランシスコの実家から家出してシカゴに住む親戚のところで専門学校へ通っていたらしく、今回の家出先もその親戚の家だった。 ここにはおじさん、そしておじさんのところの2人娘と1人息子の4人で暮らしていた。おばさんは息子さんを産んだ時に亡くなったそうです。 まだ小さかった自分はどこか心に傷を残している。僕はこの2人のお姉さん達が嫌いだった。そんな傷に気づかずに『男の子』として逞しくの意味合いもあったであろうが、大人しく気の弱い自分に対して色んな意地悪をしてきた。大事にしていたクマのぬいぐるみ『こんき』という名前のお気に入りをいつも隠されて悲しい気持ちになった。 夜になると母はいつもお化粧を始めて綺麗になっていた。甘い香水の香りをさせて忙しく支度を整えコートを羽織ると『行かないで』って玄関先で懇願する僕のおでこにキスをするとそのまま出ていく。 僕はすぐに真っ暗なリビングへ走り窓の下に止めてある薄い黄緑色のトヨタセリカを見つけ、そこに母は颯爽と車に乗り込み雪の中のシカゴの街に消えていく。 大人になって思うと夜のバーとかで働いていたのかな。。。母には聞いてないけど。。。 走り去ったセリカを見送った後、視線をあげると向かいの窓には家族で団欒している様子が目に映る。暖かい光の中でクリスマスの飾りをキラキラさせて向こう側の世界は絵に描いたようなアメリカンファミリーの光景を真っ暗な部屋から1人見つめていた。 そしてある日また気がつくとそこには父の右腕に抱えられている自分がいた。 どこかの空港で窓からパンナム航空の最新機ジャンボ747をみて父が『あれが747だよ』と聞いた記憶がある。 いつの間にか家族がまた一緒になってそして僕はカリフォルニアに戻っていた。 そこは暖かくいつも母が自分と一緒に暖かい明るい部屋で遊んでくれたことを思い出す。ポカポカと日差しを浴びて母とゴロゴロ遊んでいた暖かい記憶。嬉しかった。暖かかった。幸せだった。 父はこの時期毎日1日1個帰ってくると田宮のミニカーを買ってきてくれた。それが嬉しくて日に日にミニカーが集るコレクションとして僕の宝ものになった。...
Birth
1968年5月2日、カリフォルニア州バークレー市にて生誕 名前は増田高寛(ますだ たかひろ) 親が結婚したのは11月なのに。。。なぜか5月に生まれました。 親に聞いても回答はなく。。。 きっと今でいうデキ婚だったのでは。 うちの両親の出会いから結婚はとてもドラマチックでこの話はまた自分のこれまでの生涯を描き終えた後にでも記録として残そうと思う。 名前も見た目も日本人のままカリフォルニアで生まれるというこの先色んな意味で自分の人生に大きな影響を及ぼす事柄になる。 生まれた時は大きすぎて三又の機械で頭を掴み母のお腹から出されるとういう手法で出てきました。三又のそのうちの一本が滑り顔に大きな傷を残して出てきた。この傷は成長とともにはっきりクッキリと残ることになる。 母は専業主婦で、父は当時の日本航空貨物で働いていた。 幼少の頃から父の仕事の都合でサンフランシスコーニューヨークーシカゴを点々とし再びサンフランシスコへ戻ってきた時はサンマテオという街に住むことに。この時6歳。妹がここで生まれた。 子供の時の記憶がまだ鮮明に残っていることがある 4歳か、5歳の時か。。。 うちはいつも暗かった。カーテンのせいか薄いブルーとグレーのような色。そんな印象が残っている。 ある朝父が泣きながら僕のところへ ぎゅっと抱きしめられて泣きながら『マミーは愛してる』って。 母が居なくなった。自分と父を残してどこかへ行ってしまった。 父は乱暴で気に入らないことがあると怒鳴り散らし、怒り、母はいつも恐怖に怯えていたようにも思う。 その後どこでどうなったのか全く解らないが、気がつけば自分は母の元にいた。 母は若い時(16歳以降かな)サンフランシスコの実家から家出してシカゴに住む親戚のところで専門学校へ通っていたらしく、今回の家出先もその親戚の家だった。 ここにはおじさん、そしておじさんのところの2人娘と1人息子の4人で暮らしていた。おばさんは息子さんを産んだ時に亡くなったそうです。 まだ小さかった自分はどこか心に傷を残している。僕はこの2人のお姉さん達が嫌いだった。そんな傷に気づかずに『男の子』として逞しくの意味合いもあったであろうが、大人しく気の弱い自分に対して色んな意地悪をしてきた。大事にしていたクマのぬいぐるみ『こんき』という名前のお気に入りをいつも隠されて悲しい気持ちになった。 夜になると母はいつもお化粧を始めて綺麗になっていた。甘い香水の香りをさせて忙しく支度を整えコートを羽織ると『行かないで』って玄関先で懇願する僕のおでこにキスをするとそのまま出ていく。 僕はすぐに真っ暗なリビングへ走り窓の下に止めてある薄い黄緑色のトヨタセリカを見つけ、そこに母は颯爽と車に乗り込み雪の中のシカゴの街に消えていく。 大人になって思うと夜のバーとかで働いていたのかな。。。母には聞いてないけど。。。 走り去ったセリカを見送った後、視線をあげると向かいの窓には家族で団欒している様子が目に映る。暖かい光の中でクリスマスの飾りをキラキラさせて向こう側の世界は絵に描いたようなアメリカンファミリーの光景を真っ暗な部屋から1人見つめていた。 そしてある日また気がつくとそこには父の右腕に抱えられている自分がいた。 どこかの空港で窓からパンナム航空の最新機ジャンボ747をみて父が『あれが747だよ』と聞いた記憶がある。 いつの間にか家族がまた一緒になってそして僕はカリフォルニアに戻っていた。 そこは暖かくいつも母が自分と一緒に暖かい明るい部屋で遊んでくれたことを思い出す。ポカポカと日差しを浴びて母とゴロゴロ遊んでいた暖かい記憶。嬉しかった。暖かかった。幸せだった。 父はこの時期毎日1日1個帰ってくると田宮のミニカーを買ってきてくれた。それが嬉しくて日に日にミニカーが集るコレクションとして僕の宝ものになった。...

放送第1回記念!
Aloha~! 無事1月30日に第1回放送されましたね! 皆様ご覧になられましたでしょうか?見てくれた方々ありがとうございます。 見逃してしまった方、大丈夫!来週また同じ時間に放送されますので今度は観てね〜! ハワイアン Live in Birdland 『フォトグラファーTAKAさんのHana Hou Hawaii』 チャンネル:TOKYO MX2 毎週日曜日朝9時から〜9時半放送。 デビューということもあり、なかなか緊張してまして。。。 撮影裏話として、撮影から、MC、そして仮編集までを全て1人でこなすという。しかもプロでは無いのでなかなか滑舌が悪い。。。!結局日本の本編集で全編テロップが入れられるという。。。(ごめんなさい) 改めて思うことはテレビでている人たちの話し方や滑舌は凄い! 自分ももっと勉強して滑舌、表情など勉強しなければと思いました。 とは言っても既に3月分までの放送収録を終えてまして。。。 なかなか滑舌が。。。 でもハワイは綺麗!楽しい!コロナ禍でも頑張っている!日本の皆様を暖かく迎え入れたいという気持ちは変わらないです! 今オミクロン株が猛威を世界中で奮っています。。。どうかどうかご自愛くださいませ。健康あっての『ハワイ旅行』だから! 1日も早く世界がこのコロナに打ち勝ってまた自由に行き来できる日が来ることを心から祈ってます。 感謝 たか
放送第1回記念!
Aloha~! 無事1月30日に第1回放送されましたね! 皆様ご覧になられましたでしょうか?見てくれた方々ありがとうございます。 見逃してしまった方、大丈夫!来週また同じ時間に放送されますので今度は観てね〜! ハワイアン Live in Birdland 『フォトグラファーTAKAさんのHana Hou Hawaii』 チャンネル:TOKYO MX2 毎週日曜日朝9時から〜9時半放送。 デビューということもあり、なかなか緊張してまして。。。 撮影裏話として、撮影から、MC、そして仮編集までを全て1人でこなすという。しかもプロでは無いのでなかなか滑舌が悪い。。。!結局日本の本編集で全編テロップが入れられるという。。。(ごめんなさい) 改めて思うことはテレビでている人たちの話し方や滑舌は凄い! 自分ももっと勉強して滑舌、表情など勉強しなければと思いました。 とは言っても既に3月分までの放送収録を終えてまして。。。 なかなか滑舌が。。。 でもハワイは綺麗!楽しい!コロナ禍でも頑張っている!日本の皆様を暖かく迎え入れたいという気持ちは変わらないです! 今オミクロン株が猛威を世界中で奮っています。。。どうかどうかご自愛くださいませ。健康あっての『ハワイ旅行』だから! 1日も早く世界がこのコロナに打ち勝ってまた自由に行き来できる日が来ることを心から祈ってます。 感謝 たか

Blue HAWAII by TAKAPHOTO ~YouTubeチャンネル〜
みなさんALOHA! 久々の投稿になってしまいましたね。。。コロナになってから無くなったものを新たに積み上げてようやくやっと始動か!? というタイミングで再び全て失い。。。 やっと収束が見えたと思ったら新型が現れて、3度失って。。。 流石に心折れそうになる。というか折れた。。。 でもまた再び立ち上がり、自分に何ができるかをその都度考えて行動に移してきた。 元々の仕事は写真家 転職だと思っている。 でもその仕事ができなくなってしまい、新たな道を探す中で様々なことにチャレンジ。 動画撮影 動画編集 ドローン撮影 オンラインショップの立ち上げ YouTubeチャンネル 今回はそのYouTubeチャンネルを紹介 内容としてコロナ前まではこれまで撮影してきたウェディング写真のスライド 写真メインとして活動していたから動画は考えていなかった。 ところがコロナになってしまい、活動できなくなってしまったので仲間たちに動画を依頼して撮影に挑んだり。内容もこの状況がすぐに終わると思っていたからハワイで行われているコロナ対策を紹介したりしてました。 動画になるとアイディアが湧いてきて プロフェッショナルHAWAIIというタイトルでハワイで頑張る日本人を紹介してきたり、ハワイの綺麗な景色を写したりしてきました。 なかなかバズらないんだけど。。。 それでも素晴らしいニュースが!!! このYouTubeを見てくれたとある放送作家さんから連絡いただき、来年1月30日から毎週日曜日朝9時から9時半の間に3分コーナーを頂きました!!! チャンネルはTOKYO MX TV! 詳細解ったらまたこちらから連絡しますね!
Blue HAWAII by TAKAPHOTO ~YouTubeチャンネル〜
みなさんALOHA! 久々の投稿になってしまいましたね。。。コロナになってから無くなったものを新たに積み上げてようやくやっと始動か!? というタイミングで再び全て失い。。。 やっと収束が見えたと思ったら新型が現れて、3度失って。。。 流石に心折れそうになる。というか折れた。。。 でもまた再び立ち上がり、自分に何ができるかをその都度考えて行動に移してきた。 元々の仕事は写真家 転職だと思っている。 でもその仕事ができなくなってしまい、新たな道を探す中で様々なことにチャレンジ。 動画撮影 動画編集 ドローン撮影 オンラインショップの立ち上げ YouTubeチャンネル 今回はそのYouTubeチャンネルを紹介 内容としてコロナ前まではこれまで撮影してきたウェディング写真のスライド 写真メインとして活動していたから動画は考えていなかった。 ところがコロナになってしまい、活動できなくなってしまったので仲間たちに動画を依頼して撮影に挑んだり。内容もこの状況がすぐに終わると思っていたからハワイで行われているコロナ対策を紹介したりしてました。 動画になるとアイディアが湧いてきて プロフェッショナルHAWAIIというタイトルでハワイで頑張る日本人を紹介してきたり、ハワイの綺麗な景色を写したりしてきました。 なかなかバズらないんだけど。。。 それでも素晴らしいニュースが!!! このYouTubeを見てくれたとある放送作家さんから連絡いただき、来年1月30日から毎週日曜日朝9時から9時半の間に3分コーナーを頂きました!!! チャンネルはTOKYO MX TV! 詳細解ったらまたこちらから連絡しますね!

まさか。。。まさか。。。そしてまさかの展開!!!最終日 全米女子オープン
最終日。どこから書いたらいいのか。。。 落ち着いて考えてみてもあのトロフィーを持った笹生優花選手と周りで賑やかなメディアや観客達の声援しかはっきり思い出せないほど衝撃的な1日だったのだ。 この日最初にスタートを切った日本人の上原彩子選手。落ち着いてラウンドを重ねていった。 追い上げてきた畑岡奈紗選手のスタートは最終組前、そして笹生優花選手のスタートは最終組。この二つのグループの中の選手達誰もが優勝の可能性を秘めていることは確か。緊張感を持って練習場へ行きみんなの練習風景を撮影していく。 3日目よりも少しリラックスしている感じの畑岡奈紗選手。 いつもと同じ一番右端のところでアップをしている笹生優花選手。 その間でレクシートンプソンやメーガガネ選手達もいる。 この時笹生選手は何を考えていたのだろう。一球一球丁寧にショットを重ねていく。実はこの翌日移動したロサンゼルスまで追いかけてインタビューした時に分かったことだが、この練習場で初めて優勝を意識したという。それほど手応えがあったのだろう。 スタート時間が迫る中場所を取るために先に1番ホールへ。 カメラの設定を確認しファインダーを覗いてフレーミングを確かめる。 少し落ち着いたところで一服。 畑岡選手が入ってきたと同時に観客から拍手が沸き起こる。 いよいよだ! 畑岡選手スタート!気合十分、それでいてリラックスしている感じでティショットを放つ! スタートを見送った後笹生選手が入ってくる。レクシートンプソン選手は地元アメリカだけあって物凄い歓声と拍手で迎えられる。 笹生選手もこの日はしっかりとフェアウェイをキープするティショットを放つ! 誰もがこの時優勝するんではないか、いや優勝してほしいとチーム笹生そして私は願った。 1番ホールは難なくパーで終えて2番ホール。 レクシートンプソンの後に笹生優花のティショット ファインダー越しにアップにして表情を捉えようとフレームし、息を潜めてショットを撮る。 このティショットが今大会初めて大きく右へ流れて観客のいるところへ飛んでしまう。。。何故? ファインダー越しにも明らかに本人も困惑顔が見てとれる。。。何故だか解らない。観客もざわめく。。。 何が何だか解らない状況の中ボールのところへ。 この時笹生選手のことだから深いラフからでもグリーンを狙ってくると思ってポジションを取りカメラを構えて待ってみると、安全策を取るためにフェアウェイの方向へ打つと宣言し私を含め観客達を大きく左へ移るように指示された?! まじか。。。 笹生選手が構えるまで物凄い時間の流れを感じた。。。どうなるのか?どうするのか? その時メーガガネ選手が『Yuka,先に打つよ!』とガネ選手が少しでも考える、または時間を与えるために言ったのか。でもその言い方がとても優しく聞こえたのだ。 笹生選手がショットに入ろうと構えた時のこと、私の少し右隣にいた観客の携帯が鳴り響く。。。(おーーーい!こら!!!)と思ったのと同時に笹生選手が珍しく苛立ちを見せてその携帯が鳴った方向を睨みつけたのだ。この時ものすごく本人も困惑しているのだろうと感じ取った。 2打目。フェアウェイに飛ばすつもりが全然飛ばずにすぐ近くのラフにまた落ちる。 2番ホール上がってみたらダブルボギー。。。いきなりスコアをトップから1打差の3打差に落としてしまう。。。...
まさか。。。まさか。。。そしてまさかの展開!!!最終日 全米女子オープン
最終日。どこから書いたらいいのか。。。 落ち着いて考えてみてもあのトロフィーを持った笹生優花選手と周りで賑やかなメディアや観客達の声援しかはっきり思い出せないほど衝撃的な1日だったのだ。 この日最初にスタートを切った日本人の上原彩子選手。落ち着いてラウンドを重ねていった。 追い上げてきた畑岡奈紗選手のスタートは最終組前、そして笹生優花選手のスタートは最終組。この二つのグループの中の選手達誰もが優勝の可能性を秘めていることは確か。緊張感を持って練習場へ行きみんなの練習風景を撮影していく。 3日目よりも少しリラックスしている感じの畑岡奈紗選手。 いつもと同じ一番右端のところでアップをしている笹生優花選手。 その間でレクシートンプソンやメーガガネ選手達もいる。 この時笹生選手は何を考えていたのだろう。一球一球丁寧にショットを重ねていく。実はこの翌日移動したロサンゼルスまで追いかけてインタビューした時に分かったことだが、この練習場で初めて優勝を意識したという。それほど手応えがあったのだろう。 スタート時間が迫る中場所を取るために先に1番ホールへ。 カメラの設定を確認しファインダーを覗いてフレーミングを確かめる。 少し落ち着いたところで一服。 畑岡選手が入ってきたと同時に観客から拍手が沸き起こる。 いよいよだ! 畑岡選手スタート!気合十分、それでいてリラックスしている感じでティショットを放つ! スタートを見送った後笹生選手が入ってくる。レクシートンプソン選手は地元アメリカだけあって物凄い歓声と拍手で迎えられる。 笹生選手もこの日はしっかりとフェアウェイをキープするティショットを放つ! 誰もがこの時優勝するんではないか、いや優勝してほしいとチーム笹生そして私は願った。 1番ホールは難なくパーで終えて2番ホール。 レクシートンプソンの後に笹生優花のティショット ファインダー越しにアップにして表情を捉えようとフレームし、息を潜めてショットを撮る。 このティショットが今大会初めて大きく右へ流れて観客のいるところへ飛んでしまう。。。何故? ファインダー越しにも明らかに本人も困惑顔が見てとれる。。。何故だか解らない。観客もざわめく。。。 何が何だか解らない状況の中ボールのところへ。 この時笹生選手のことだから深いラフからでもグリーンを狙ってくると思ってポジションを取りカメラを構えて待ってみると、安全策を取るためにフェアウェイの方向へ打つと宣言し私を含め観客達を大きく左へ移るように指示された?! まじか。。。 笹生選手が構えるまで物凄い時間の流れを感じた。。。どうなるのか?どうするのか? その時メーガガネ選手が『Yuka,先に打つよ!』とガネ選手が少しでも考える、または時間を与えるために言ったのか。でもその言い方がとても優しく聞こえたのだ。 笹生選手がショットに入ろうと構えた時のこと、私の少し右隣にいた観客の携帯が鳴り響く。。。(おーーーい!こら!!!)と思ったのと同時に笹生選手が珍しく苛立ちを見せてその携帯が鳴った方向を睨みつけたのだ。この時ものすごく本人も困惑しているのだろうと感じ取った。 2打目。フェアウェイに飛ばすつもりが全然飛ばずにすぐ近くのラフにまた落ちる。 2番ホール上がってみたらダブルボギー。。。いきなりスコアをトップから1打差の3打差に落としてしまう。。。...