バイバイ日本

サンディエゴ・チュラビスタに住むことに

ここのホームステイ先は日本語話す韓国人のお母さんと白人さんとの間に生まれたハーフの息子さんの母子家庭。

とにかくこの2人には意地悪された。。。

どこへ行っても虐められる。意地悪される。。。

半年住む予定だったが勝手に語学学校を変えて寮生活できるところへ2ヶ月で決めて出ていく。

その行ったUCSDの寮生活、学校生活は楽しかった。全てが新しかった。

出会った先輩や周りの友達がとても優しく、楽しく、ちょっと大人の世界を教えてもらいつつ。新鮮だった。

そんな時。。。

家族が全員サンディエゴに引っ越して来てしまい。。再び家族と住むことに。。。24歳まで。。。

 

父親とも折り合わず、やりたい事を奪われて無気力になり、たいして学校へもいかずバイト、サーフィン、ゴルフ、バイクに明け暮れる日々。。。そんなのんべんだらりと生活していたら

気がつけば短大を4年も行ってた。。。笑

4年も行けばさすがに単位も取れてて卒業または4年生大学への編入話が浮上する。

この時就職するか大学へ行くか悩んでいたが仕事の話が来ていたところのお給料事情を聞くと愕然。4年生大卒の給料が初任給1100ドル〜

最高額でも1500ドル。。。この時レストランのシェフでさえ5000ドル以上貰っていたのでこれでは就職は無理と決断。

親と離れるタイミングだとも捉えてサンフランシスコ州立大学へ編入を果たす。

久しぶりに戻ってきたサンフランシスコ!

自分の故郷はここだとこの時は信じていた。

同時のサンフランシスコはお世辞にも綺麗で安全な街とは言えなかったが、毎日が新しく、楽しく、自由だった。ジャパセン(ジャパンセンターという日本人街)の中に紀伊国屋書店があってここでバイトを始める。大好きな雑誌に触れて毎日大好きな写真を見て!

自分の人生を変える人物『橋本勝』に出会うのもこのサンフランシスコ。

当時のジャパセンには同じような年代の日本人たちがいて日本ではJリーグが発足するその年に仲間が必然と集まり、勝に出会うことで本格的にチームを作った。

当時勝の兄貴がブラジルプロサッカーチーム『コリンチャンス』に所属していることもあって我々はサッカーに没頭し毎日のように部活のように激しく練習し、激しく遊び、激しく飲んだ!笑

今では自分の青春時代がこのサンフランシスコの『コリンチャンス』時代なんだと。

紀伊國屋で働いているお金がサッカーや飲み代に消えていくのでバイトをもう2つ掛け持つことに。ビデオ屋さん、そして観光バスのツアーでモントレーカーメルをご案内する仕事。

学校そこそこにバイトとサッカーに明け暮れ4年生最後の学期で就職をする。

HISサンフランシスコ支店。

入社2年で成績が優秀で当時はJALと大韓航空、アシアナ航空の航空券売上が個人でよく接待された。訳もわからない大人の世界に招待されて居心地悪かったのを覚えている。バブリーな時期であった。

業績が認められ新宿本店で働くことになる。当時は自分ではほんの数ヶ月いるだけだと思っていたのだが、1年いてくれと。

新宿での仕事はきつかった。後にブラック企業として厚生省に叩かれるのだが、当時いた自分はバブル後の日本のサラリーマンとして企業戦士としてこき使われる日々。それでも自分から率先して毎朝6時半には埼玉の駅から満員電車に乗り、埼京線に乗り換えて朝早く誰よりも会社へ出社し240ものみんなの机を拭き掃除した。なんせ日々の成績が周りよりも芳しくなく、新宿だからヤクザもいて喧嘩になりそうになったり。。。よくお騒がせしてましたから。。。

夜の11時までなんとなく仕事して満員電車に揺られて帰る毎日。

当時の寮は大阪からきた先輩と同居。窓際の6畳を二間取られて自分は4畳半の窓のない狭い部屋にストーブも何もない部屋に。

冬はめちゃめちゃ寒く。それでも久しぶりの日本ということと、社会人として自立して自分がそこにいるのが楽しかった。

3ヶ月経ってもサンフランシスコに戻る話が出ないので上司に確認すると1年いてくれと。。。

普通の日本人?!ではない自分はイヤイヤあり得ないですと。自分はサンフランシスコへ帰ると押し切って4ヶ月日本で働いたあと戻れることに。

ところがサンフランに戻ってから数ヶ月のちに辞令が。。。

なんとホノルル支店への移動を命じられるのだ。。。

再び日本の本店へ戻り、正式に辞令をもらい、その後の給料や事業展開の話し合いと確認で。。。

ハワイへ移動と同時にサッカーも引退。みんなともこの時期バラバラになってしまう。青春の終わりだった。

ハワイに来ると全くまた常識が違う国のような感覚。

住まいを見つけ開業しコツコツと2年2ヶ月働いて辞める。

カリフォルニアへ戻り少しの間父の事業を手伝うがここで問題を起こし、知人の紹介で再びハワイへ。

 

この時初めてカメラの世界に入る。30歳!

ワタベウェディングの下請け会社で『アートファクトリー』という新しい会社ができたのでここの営業マンとしてワタベ社とのパイプ役として就職。

桜井雅弘という同い年のプロカメラマンだった彼の元で写真の世界を知ることになる。

最初の1年までは良かったが、アメリカ同時多発テロの影響で日本からのカップルは来なくなり、直後日本へ神戸から札幌まで営業のどさ回り。

戻ってくると仕事もないので何故か窓際に。。。

お荷物になった自分は社長や一部のカメラマンにいじめられながら、ハワイ現地ローカルのウェディングを開発することに。

2年目になったある日。会社の何かのイベントで飾り付けをしていたら突然のたうち回るほどの激服痛が。。。盲腸と胃潰瘍を併発していた。

痛みを訴えたところ、そこにいたカメラマンの1人がお大事にって帰っていく。。。

這いつくばりながらなんとか表に出て、タクシーを拾い救急へ。

なんとか手術だけは避けてもらい注射と薬で対応してもらう。

この時マジでこの会社に愛想尽かすのだが、当時飛ぶ鳥勢いでウェディング写真界を席巻していた『ラヴィファクトリー』の社長梅田福夫氏にワイキキの街中で出会う。当時毎日ウェブサイトをみて感激していた会社の社長がそこにいるなんてまるでアイドルにでも出会ったかのように思わず声をかけてしまった。

名刺をもらい『何かあったら連絡して』と言われていた。

会社に愛想尽きていた自分は2月1ヶ月悩む。

妹に相談したら『一歩踏み出す勇気』と声を掛けてくれて背中を押してくれた。

3月早々に梅田さんに連絡し面接してくれることに。

この時発売されたばかりのセクシーのワタベウェディングの広告一面に自分の写真が使われた。この雑誌を持って面接に行く。

ドキドキしながら自分の拙い作品を見てもらって、一言

 

『いつ来れる?』

 

頭真っ白。。。

カメラマンとして雇ってほしいと行ったのでまさか雇ってくれるなんて夢にも思ってなかったし。。。

3月の頭だったので思わず4月1日と!

そして消化してなかった有給を3月残り2週使って辞めようと!

この時親友だと思っていた平川に相談した。桜井社長には内緒にしていて欲しい。自分から必ず伝えると言っていたのに、速攻社長にタレコミ。。。

ちょうど良かったのでそのまま伝えて、会社もその日からさようなら!

 

ラヴィでの面接を終えて帰ろうとした時に、梅田さんが『カメラは?』と聞かれたので当時持っていたバイク2台を売ってなんとか買います。と。。。

そしたら『ちょっと待って』と言って事務所の奥へ消えて

しばらくすると使い古したカメラバックを持ってきてテーブルにドン!と

『これを使っていいよ。3ヶ月で自分の機材を買えなかったらその時はプロ諦めな』と言って自分の名前が刻印されたカメラ機材一式を僕に全部渡してくれたんです!この時は鳥肌立ちました!

 

4月入社し、その日からプロデビューしている先輩についてトレーニング!

14日間みっちりトレーニングしたのち、梅田さんに『髪の毛金髪にできる?明日からデビューして!』

???

金髪にしてプロデビュー?!

 

黒髪だと真面目すぎるから金髪でがデビューの条件!!!

 

時代を築いた梅田さんは本当に面白く、破天荒だったがこのビジネスでの我々の育て方や、ビジネスの展開は素晴らしかった!凄かった!

 

このデビューから5月いっぱいまで仕事をみっちり入れてもらい、休みなんて要らなかったほど夢中になって撮影していた!気がつけばこの2ヶ月でカメラ機材を買えるほどのお金ができていた。全て梅田さんがしてくれた!スケジュールも優先してくれて。

5月終わりに梅田さんのところへ行き、機材を返しにお金持って行ったら。

 

『ちょっと待って』てオフィスの奥へ行き、ヨドバシカメラの大きな紙袋持ってテーブルに置くと、TAKAのだからって。

再び鳥肌。。。

しかもカメラを見ると自分の名前が刻印されている!!!

お金を支払おうと渡すと半分だけ抜いて、後の半分を返してくれた。

『これでいいよ!』って

やうやくやっとプロとして認めてもらえた瞬間だと感じた。

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