プロカメラマン

2002年4月15日がプロカメラマンとしてデビューした日。

この日から自分の新たな人生が始まった。

結婚もした。。。

自分の力とセンスで認められて報酬を得ることができるこのカメラの世界がたまらなく魅力的で刺激的で楽しい。

それは今でも同じ気持ちでやはり自分の写真で誰かが喜び、または認められて活躍できるってそれって自分が必要とされているって実感できるし、頑張れる。

こんなにも素晴らしい仕事はない。

2002年から駆け抜けて2005年にこのラヴィのホノルル支店の店長を任されるまでになりました。

1年で店長を辞めて、そこからフリーとしてウェディング写真だけでなく雑誌の世界へ活躍の場を広げる。観光雑誌の当時ハワイスタイル、アロハエクスプレス、るるぶなど。新しい世界での写真の世界もとても楽しく、面白かった。新たなことにチャレンジしている充実感がそこにはあった。

2008年にそれまでラヴィの梅田さんに言われ続けていた

『俺のところで学んだら世界のどこでも仕事はできる!』と

その言葉を胸に新たなチャレンジに踏み出したくなり、いきなりニューヨークへ活動の場を探す。

 

写真といっても写真の世界はさまざまで、それこそウェディングカメラマンや戦場カメラマン、ファッション、ヌード、アート、グルメ、新聞、などなどその世界全てに写真の仕事があるのだ。

ハワイでは観光系とウェディングをやっていた。ニューヨークでは。。。

自信持って自分の作品を抱え、履歴書とともに有名企業の門を叩く。

それこそロイター通信、AP通信、時事通信からさまざまな写真会社の門を叩くがどの会社も同じように。。。

『写真は素晴らしい!これならフリーとして自分でやった方がいいよ!』って。

 

最初はまともに受け止めていて喜んでいたのだが。。。4、5社目辺りから

ニューヨーク流の断り方なのかと!!!

21社まで断られ、22社目に初めて現地のウェディング写真会社へ行ってみるとまた同じように『素晴らしい作品!自分でやった方がいいよ!』って。

流石に困ってしまい、自分もここで折れてはと思い交渉するも、『ここまで撮れるなら自分でやった方がいいよ!』ってお世辞でもなんでもなかったようで。。。ただ自分でやるにしても『どうすれば???』

って考え。。。

気がつけば新しくアパート借りて、変なこだわりでマンハッタンにどうしても住みたかったから高額な家賃にも関わらず。。。
手元には現金の20ドルしか無くなってしまった。。。

当時結婚していた相手には娘もいてまだ小学生でお腹も空かせていたのに、こともあろうか俺は10ドルもするタバコを買ったし。。。

考えて考えて、当時地元掲示板のネット版があることを知り、ここに自分ができる撮影プランを掲載。すると速攻反応があり、一番高いプランが即売!!!

ここから勢いを吹き返すのだ!

まだ就職先を探している時のこと。雪の降るマンハッタン。ブライアントパークに差し掛かると何やら大きなテントがいっぱいあって周りにはたくさんのお洒落な人たちが群がっていて、それはそれは華やかな世界があった。

寒さも忘れ、なんだろうとテントに近づくと警備の人が『パス持ってる?』と聞かれるが『パス』自体全く知らない自分は『カメラマンなんだけど、どうやったら入れる?』って聞いたら連絡先を教えてくれた。それが当時ニューヨークコレクションを開催している会社だった。

連絡してみると作品を見せて欲しいと言われ、ファッションなんて撮ったことないし、作品もないので知り合いになったばかりのヘアメイクさんのエミさんに聞いてみると、彼女もミルクスタジオという会場のパス(この時大きな勘違いをするのだが)を持っているから欲しい?と聞かれたので欲しい!!!と

 

パスをもらい当日何も知らないで現場に着くとたくさんの人が列をなして会場の外で待っている。その列を尻目にゲートの前まで行き、もらったパスを見せてカメラマンだけどと伝えると、会場の中を案内してくれた。エレベーターを上がりドアが開くとそこにはメイクや髪の毛のセット、ネイルなどなどたくさんのモデルさんとスタッフが忙しく準備を進めていてドアの前に1人責任者であろう方が立って『何しに来たの?』って聞かれたのでまたそのもらった『パス』を見せてカメラマンなんだけどと言って見せたら。『もう始まってるよ!』といって中に入れてくれた。なんとここは『バックステージ』と呼ばれる選ばれたカメラマンしか立ち入れない聖域だったのです!

訳もわからず無我夢中でシャッターを切っていると、いろんなモデルさんたちが視線をくれていっぱい写真を撮りまくった。

メイクも終わり着替えが始まると男性の僕でも躊躇なく脱ぎ出し、紐パン1枚の姿で並び、スタイリストさんたちが一斉に服を着せ始める!出来上がったモデルさんたちは僕の前に来てポーズを決めてくれたり、笑顔をくれたりと。。。

着替えも終わりモデルさんたちとドアの前にいた男性の方に誘導されて会場へ!

カメラ席のセンターど真ん中に場所を用意されてスタンバイしていると。。。

会場にぞろぞろと外に並んでいたお客様たちがランウェイの周りの席に座り出した。半分ほど埋まったあたりでパスをくれたエミさんも会場に現れた!

エミさんは僕を見て驚き!!!『タカさん、ここ!!!』とエミさんの隣の席を指さして『そのパスはここの席だよ!』って。。。

 

『え???』

 

そうなんです。僕のもらったパスはカメラマンの撮影用ではなく、一般席のパスだったんです!!!!

 

でもエミさんはすぐに察してくれて、席に行こうとする僕にジェスチャーで『そこに居なさい!頑張って!』って!!!

 

ファッションカメラマンの花形ってブランド専属であり、またバックステージを撮れるカメラマン!

なんの経験もなく、ただの『勘違い』だけでここまで来てしまったこのチャンスがそのあと3年もの間ニューヨークファッションウィークのランウェイを撮れるまでになったんです!

メイクルームの前にいたお洒落な男性(確かマリオだったかマルコだったか)

知っていて入れてくれたんだって、その日から3年後最後の撮影の時に出会うまで知らなかったんです。

バックステージの写真とショーをランウェイど真ん中から撮っている写真はそれだけで主催会社を納得させるだけの力を持っていた!認められ2人までカメラマンを入れていいとまで言わせた!!!めちゃめちゃ嬉しかったです。

当時リナさんというエミさんの友達から日本のアパレルウェブを紹介してもらい日本最大級のアパレルサイトとコラボして当時ほぼ同時配信的なサイトを作ってもらいました。

このファッションから7人仲間が集まり、みんなで夢中になって追いかけたファッションの世界!

2009年9月29日に息子・隼人がニューヨーク大学病院で生まれる!

この息子誕生を機に2010年11月にハワイへ戻る決意をしてニューヨークを後にします。

再びハワイに戻ると梅田さんにお世話になる。暖かく迎え入れてくれた。

その後離婚も経験し、3年近く息子と離れて過ごすことになるが、無事息子と再び一緒に生活することに。

息子の写真を撮りまくってフェースブックに『小さな冒険シリーズ』として息子の成長記録を載せてました。

2013年そこから転機が!!!前々から見ていたF1カメラマンの『宮田正和』氏のウェブサイト!ある日更新されなくなり、そしてサイトが無くなったのでフォースブックで名前検索したら見つけた。問い合わせてみると『現在工事中』というやりとりをしていたら、宮田氏から『F1興味ない?』と言われ、大好きです!と答えたら、『撮ってみない?』って?!

まじ?!

僕の息子の成長記録『小さな冒険シリーズ』を見てくれて『このようにF1を撮って欲しい』って。。。?!

どういう意味ですか?って聞いたら『愛情持って撮影している』その姿勢、写真と同じようにF1を撮って欲しいって仰ってくださいました!

2013年晴れてカナダグランプリからF1カメラマンデビュー!

カナダグランプリは開催6月、モントリオールで開催される。ハワイから行くとカナダの気温はまだ冬でその時の気温は10度でした。空港へ着くと雨も降っておりまさにハワイからのトンチンカンな真夏の格好で雨具持っておらず、その日完全に風邪を引いてしまった。熱まで出てしまいヒーヒーフーフーしんどいなか初日を迎えることに。

持っていったレンズは600mmとこれもかなり近くまで寄れるカナダのコースでは難しすぎた。。。300km超えるスピード、マシンが通り過ぎるたびに顔に当たる水飛沫や埃、そしてマシンの爆音に圧倒されて全く納得のいく写真が全然撮れないのだ。。。撮った写真を宮田さんに送りアドバイスをもらうもなかなかちゃんと撮れない。撮影する場所の取り方や、猛スピードで走りさるマシンの残像しか撮れていない状況で最終日を迎えることに。

土曜日予選の前に折原さんというカメラマンに400mmのレンズを使ってみては?とのアドバイスをもらいキャノンブースで貸し出している400mmを借りて撮影することに。するとそれまでの視界が一気に広がり撮りやすくなったのだ。

最終日400mm抱えてそれまで考えていた場所から夢中で撮りまくる。初日、2日目に比べるとなんとなく使えそうな写真が数枚撮れた。

最終日には熱もなんとか収まり無事初F1撮影が終わった。

その年はアメリカグランプリも行けて翌年も無事パスを発行してもらえるようになった。2018年のアメリカグランプリまで5年F1を撮影しました。

本当は10年続けたかったがやはり時代の流れか、デジタルでの情報やサイトが主流になり紙媒体の雑誌や写真集がなかなか売れなくなりスポンサーも降りてしまってからは行けてない。

2018年から仕事で知り合った青島家の息子・賢吾君がアマチュアの世界でゴルフにチャレンジするところからゴルフ撮影も始まる。高校卒業から様々な大会に呼ばれ撮影する機会ができた。

大学ゴルフ選手権の最高峰であるアーノルドパーマー選手権に大学1年生の賢吾くんが出場することになりゴルフの世界にも魅せられる。様々なドラマがありその様子を写真で撮影することの楽しさを知る。

全米アマチュア選手権やハワイの地元の大会なども撮り、2021年よりゴルフダイジェスト誌からハワイで開催されるSONYオープン!2年目の2022年は久しぶりに日本人松山英樹の優勝の瞬間を!2021年にはSONYの他にもロッテチャンピオンシップや全米女子オープンも撮影し、全米女子では笹生優花選手と畑岡奈紗選手の日本人同士のプレーオフまで!メジャーで日本人初制覇となった笹生優花選手の活躍も収めることに!

2020年3月24日コロナウィルス感染拡大によりハワイで初めてのロックダウン。

ここで一気に仕事が無くなる。当初はすぐに収まるだろうとタカを括ってしまいロックダウン初日から毎日サーフィン。息子の隼人ともこれまで仕事で忙しすぎてなかなか相手することができなかったからとてもいい休息になったし、隼人ともサーフィンができる嬉しさは一つ自分の描いていたハワイでの子育ての夢が実現した瞬間でもあった。

GoProを買って初めての水中&動画にチャレンジする!なかなかポジショニングが難しく、それでも隼人の記録を収めることが楽しくなっている。

2019年の終わり頃から始めたyoutubeも色々試してみる。

このYouTubeを見てくれた放送作家のはたせいじゅん氏がTOKYO MX2のチャンネルで自身のコーナーがハワイアンライブインバードランドという番組を繋いでくれて、1月からスタートしました。(ところがあまり人気なく今年6月には終了になりそう。。。)

ちなみにロックダウン直前に行われたワタベウェディングのフォトコンテストで見事ウェディング部門優勝!!!!

コロナになってからできなくなった撮影。。。

それでもなんとかしなければと思い、再び収束して再開するときのためにと思いハワイにいるウェディング事業者たちに声を掛けて再会したときのビデオメッセージを日本のみんなに向けて配信できるように2020年10月は精力的に声を掛けてビデオを撮影した。編集も勉強しながらみんなの協力を得て完成。

今年2022年3月25日に晴れてその動画を配信することができたのです。

コロナになってから2020年は撮影がなくなり、2021年SONYオープンを皮切りに新たなフィールドへと活躍の場を広げようと考えたのだが。。。7月に猛威を振るうことなるデルタ株でまた再び道を閉ざされてしまう。

幾度も打ちのめされ、落ち込み、迷い、悩み、そしていよいよ資金までもがなくなって来ている状況に今はただただ打ちひしがれている余裕もなく。

1年前に始めたショピファイではそれこそ始めた頃は順調だったにも関わらず3ヶ月ほどで売り上げが全く無くなる始末。

写真を増やし、あの手この手を試すもどれもダメ。。。

まさに今どん底。。。どん底なのか?まだそれともまだ下があるのか?

今となってはカメラの仕事として生活を維持できていない状況の中で果たして本当にプロと言えるのか?

毎日自問自答を繰り返し、それでも生活は続くためバイトをしながらなんとか生活を保たせている状況。

昨年9月に第2子となる娘・光桜(みお)が生まれた。

隼人と光桜のためにもなんとかしなければ。

今日は素敵な出会いがありました。

みんなこのコロナでいろんなことを考えそして試し、前に進もうとしている。

刺激をもらいまだまだこれから自分も再起を掛けて立ち上がる時が来た。

一度自分を見つめ直す為にこの長々と拙い文章力で自分の生い立ちをざっと綴ってみたけれど。

 

リセット

 

マイナスからのスタート。

53歳、人生これから。

カメラの仕事、生きていくための手段。

カメラとして仕事としてほぼ全て失った。ここからまた始めればいい。

 

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