Birth

1968年5月2日、カリフォルニア州バークレー市にて生誕

名前は増田高寛(ますだ たかひろ)

親が結婚したのは11月なのに。。。なぜか5月に生まれました。

親に聞いても回答はなく。。。

きっと今でいうデキ婚だったのでは。

うちの両親の出会いから結婚はとてもドラマチックでこの話はまた自分のこれまでの生涯を描き終えた後にでも記録として残そうと思う。

名前も見た目も日本人のままカリフォルニアで生まれるというこの先色んな意味で自分の人生に大きな影響を及ぼす事柄になる。

生まれた時は大きすぎて三又の機械で頭を掴み母のお腹から出されるとういう手法で出てきました。三又のそのうちの一本が滑り顔に大きな傷を残して出てきた。この傷は成長とともにはっきりクッキリと残ることになる。

母は専業主婦で、父は当時の日本航空貨物で働いていた。

幼少の頃から父の仕事の都合でサンフランシスコーニューヨークーシカゴを点々とし再びサンフランシスコへ戻ってきた時はサンマテオという街に住むことに。この時6歳。妹がここで生まれた。

子供の時の記憶がまだ鮮明に残っていることがある

4歳か、5歳の時か。。。

うちはいつも暗かった。カーテンのせいか薄いブルーとグレーのような色。そんな印象が残っている。

ある朝父が泣きながら僕のところへ

ぎゅっと抱きしめられて泣きながら『マミーは愛してる』って。

母が居なくなった。自分と父を残してどこかへ行ってしまった。

父は乱暴で気に入らないことがあると怒鳴り散らし、怒り、母はいつも恐怖に怯えていたようにも思う。

その後どこでどうなったのか全く解らないが、気がつけば自分は母の元にいた。

母は若い時(16歳以降かな)サンフランシスコの実家から家出してシカゴに住む親戚のところで専門学校へ通っていたらしく、今回の家出先もその親戚の家だった。

ここにはおじさん、そしておじさんのところの2人娘と1人息子の4人で暮らしていた。おばさんは息子さんを産んだ時に亡くなったそうです。

まだ小さかった自分はどこか心に傷を残している。僕はこの2人のお姉さん達が嫌いだった。そんな傷に気づかずに『男の子』として逞しくの意味合いもあったであろうが、大人しく気の弱い自分に対して色んな意地悪をしてきた。大事にしていたクマのぬいぐるみ『こんき』という名前のお気に入りをいつも隠されて悲しい気持ちになった。

夜になると母はいつもお化粧を始めて綺麗になっていた。甘い香水の香りをさせて忙しく支度を整えコートを羽織ると『行かないで』って玄関先で懇願する僕のおでこにキスをするとそのまま出ていく。

僕はすぐに真っ暗なリビングへ走り窓の下に止めてある薄い黄緑色のトヨタセリカを見つけ、そこに母は颯爽と車に乗り込み雪の中のシカゴの街に消えていく。

大人になって思うと夜のバーとかで働いていたのかな。。。母には聞いてないけど。。。

走り去ったセリカを見送った後、視線をあげると向かいの窓には家族で団欒している様子が目に映る。暖かい光の中でクリスマスの飾りをキラキラさせて向こう側の世界は絵に描いたようなアメリカンファミリーの光景を真っ暗な部屋から1人見つめていた。

そしてある日また気がつくとそこには父の右腕に抱えられている自分がいた。

どこかの空港で窓からパンナム航空の最新機ジャンボ747をみて父が『あれが747だよ』と聞いた記憶がある。

いつの間にか家族がまた一緒になってそして僕はカリフォルニアに戻っていた。

そこは暖かくいつも母が自分と一緒に暖かい明るい部屋で遊んでくれたことを思い出す。ポカポカと日差しを浴びて母とゴロゴロ遊んでいた暖かい記憶。嬉しかった。暖かかった。幸せだった。

父はこの時期毎日1日1個帰ってくると田宮のミニカーを買ってきてくれた。それが嬉しくて日に日にミニカーが集るコレクションとして僕の宝ものになった。

ある時それはミニカーでは無く、漫画本を買ってきてくれたことがあった。まだ字も読めないし、たくさん楽しそうな絵があって嬉しかった記憶があったのも束の間。母にお風呂に入るよと言われ本をそのままにお風呂場へ。

戻ってくると鬼の形相の父は『片付けろと言っただろ!』と怒鳴りながらその漫画本をビリビリに破り散らかした。ただただその父に怯え泣いた記憶が残っている。

この頃の子供のお仕置きって皮のベルトでお尻を叩かれる手法もあって、自分がどんな悪いことをしたか全く覚えていないがそのベルトに怯えていた日々。。。

妹が生まれる。生まれる時僕は別室に知らない看護婦さんと一緒に。キャンデーバーをもらった記憶があるがキャンデーバーよりも1人にされた寂しさが強かった。周りが急にバタバタ騒がしくなる。妹が生まれたようだ。

母と妹が病院から家に帰るときのこと。当時からジャックインザボックスというファーストフード店があってよくネズミが出るニュースが流れてて父がそんな話をした記憶がある。そんな話を聴きながら可愛い生まれたての妹を見つめていた。

お兄ちゃんになった。

妹が生まれて帰ってくるとアメリカ育ちの母は日本に暮らしたいと父にお願いすると家族みんなで日本へ移住することになった。

父の実家は静岡の浜岡。

父は4人兄弟の3番目。実家には1番上の兄(おじさん)家族(嫁、娘)、両親、おじいさん、おばあさんの7人で過ごしている中に我々4人がしばらくの間厄介になる。

僕はここのおじさんにとても可愛がられいつの日がこのおじさんのことを『お父さん』と呼ぶようになっていた。自分の父は英語でダディーと呼んでいた。

このお父さんに釣りや、プラモデル作り、山登り、色んな話を教えてくれてたくさん遊んでくれた。夜になるとお父さんの膝の上でテレビを見て気がつくとそのまま寝ていた。楽しかった。

でも環境が変わり衛生面でも田舎暮らしはなかなか合わずよく喘息が出て死ぬかと思うほどの息苦しさに見舞われることも多々あった。猫の毛が合わなかったように思う。

お父さんのところには娘がいて自分よりちょっと年上の美香子姉さんがいた。綺麗だったしいつも優しくて大好きなお姉ちゃんだった。

やがて藤枝市に家が見つかり2番目の兄のところで父が仕事を手伝うことになるのだが、ほんの少しの間美香子姉ちゃんと一緒に学校へも行った。小学1年生!

学校給食というものを始めて経験するのだが、この時お盆に並べられた中でまるごとのトマトがデザートだということを最初に一口かぶりついて周りの子供達に叱られた時に知る!

藤枝へ引っ越しをして学校へ行く前にその時の大洲小学校の教頭先生に『僕の名前はなんだい?』と頭を撫でられて聞かれたが『おじさんの名前知らない』と答えた。なかなか日本語も喋ることもなかった自分がいきなり『僕の名前は?』と聞かれてそれが自分のことを聞かれているなんて知る良しもなく。

当時の日本の学校はどこか共産主義、社会主義的な思考が強く中国を崇拝している雰囲気の中、アメリカは敵国。日本をやっつけた仇として見られていたように思う。そう思ったのも転校生紹介の時に棘のある先生の紹介の仕方(ただ単に日本語が理解できていなかったのか?いや、でも声のトーンで微妙に感じることのできるネガティブな感じ、ウェルカムではない雰囲気を感じ取っていた。)

その日から子供達は残酷で毎日のようにいじめられる。

アメリカ人と言われ、日本が小さくなったのはアメリカのせいだとか。。。

まだ戦争の傷跡は残っていた。その格好のターゲットとして上級生からも同級生からも虐められる日々。ただただ耐えて耐えて耐えて。。。

毎日傷を作り、同じ膝に何度も何度も転んだ時に着いた傷が傷が癒えること無く。。。4年生の時に父に合気道道場へ連れて行かれた。愛気道というなの道場でこの時始めて武道を習い始める。父も一緒に習い、柔道経験のある父はどんどん上達してく。僕は受け身が嫌いでなかなか馴染めず。。。

そんな時テレビを見ていると笹川会長の『戸締り要人日の要人』コマーシャルで空手着きて富士山バックに走っている姿をみて『これだ!』と思った。

親に頼んで空手道場『子宝道場』へ通うことになる。小学5年生。

6年生の時に大洲小学校から高洲小学校へ転校することになる。

この時父は周りの近所住民から『英語』を教えてくれということで塾を始める。

今でいう塾ブームのぜんぜん前の時期で名前すらない。生徒1人1ヶ月3000円で見ていた生徒が最後にアメリカへ戻る時までには250人ほどの生徒に膨れ上がっていた。始めた当初から1人3000円は変わることなく、そして最後まで名前のないただの塾として終了した。

大人の英会話も母が担当して当時CBSソニーの社員たちがうちに通っていた。

僕と妹はいつも学校から帰ってくると父は仕事へ。

母は自分が中学生の頃からだんだんと原因不明の病にかかり、うちに帰ってくると毎日バケツを抱えてゲーゲー吐いていた。。。

母を看病しようと背中を押したり、熱いシャワーを掛けてあげたり、とにかく自分にできることはなんでもやった。

父も病院が分からないならといろんな祈祷師に頼んだり、宗教やってみたり、霊媒師に見てもらったり。。。

この時のうちは面白く(当時は真剣だったから笑える)

ある日家の前にお地蔵さんがいたり

またある時学校から帰ってくると父と母が何やら灰を巻きながら変な念仏なのかおまじないなのか家の周りをぐるぐる回ったり。。。母の病気を治すためならと父も必死にいろんな神様、仏様に縋ってみた。どれも全く効果なく子供ながらに結論としてこんな祈祷師、霊媒師なんて嘘だと。

10年母はこの原因不明の病気のために入退院を繰り返すことになり、うちにも影を落とすことに。。。

学校の理不尽な躾や暴力、先輩たちの執拗ないじめなどにも反発、反抗しながら中学、高校生活を過ごすことに。

 

話は戻るが小学6年生に自分の将来に多大なる影響を及ぼすことが起きる。

この時のお年玉の金額は始めてたくさんのお金を貰った感覚がある。確か3000円だったけど。。。

このお金を握りしめて本屋へ。

その時YEAR BOOKというタイトルの分厚い写真集のようなものを見つけ、表紙は平忠彦選手がハングオン決めている後ろ姿の写真に惹かれて手に取ると、そこには自分の知らない世界のオートバイの世界選手権があって、その世界の舞台に日本人選手たちが外人相手に堂々と戦って活躍していることを知った。

当時の小学生って『巨人の星』や『タイガーマスク』というアニメが流行っていて作中にも外人選手のデカさやパワーなど大袈裟に描かれていて必然的に子供ながらに『外人には敵わない』という先入観があったのだが、オートバイの世界選手権では日本人が活躍し、そして世界チャンピオンまでいることに驚きと興奮を覚えこの世界の虜になってしまった。

この1冊の本、写真集が自分のこれからに多大なる影響を及ぼすとは夢にも思わないが確実に自分の夢の一部の柱として軸になったことは間違いない。

 

水野先生(理科の先生で野球部の顧問)からボコボコにされて

美術の先生に虐められて、

学校の規則や、先輩のいじめに辟易していた中学時代、

訳のわからない日々をただなんとなく過ごした高校時代。

この時長渕剛や尾崎豊に影響されこの詩のように過ごす憧れもあった。

高校を卒業したら自分は確実にオートバイの世界に入るんだと夢見ていて、学校が進める推薦の学校を全部断り、大学への願書はどこへも出さずにいたのだが、父は猛反対しそれまで大学なんて行く気がなかった自分を卒業から3日後にカリフォルニア・サンディエゴにホームステイやら語学学校など決めて強制的に行かされた。

 

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